今年読んだ本から (2018.12.13)
 『人間の條件』(五味川純平著)と『風は西から』(村山由佳著)の2冊が、特に印象に残っています。『人間の條件』は戦時中の満州での出来事、『風は西から』は現代の企業での話と、時代背景も、状況も全く違う設定なのに、同じストーリーではないかと錯覚しそうになりました。戦時下の軍隊での非人間的な扱いと、今の企業で人を使い捨てにする処遇が、まったく重なって見えたのです。戦時下だったから、異常なことが起きたのではなく、私たちが人とはどう生きるべき存在かを忘れる時に、人を死に追いやる状況が生じてくるのではないでしょうか? そこに何度でも同じ過ちを犯してしまう人間の罪深さがある気がします。もうすぐクリスマス。やはり、私たちには救い主が必要です。

糸紡ぎと職業(2018.10.11)

 ガンディーは糸紡ぎを奨励しました。全ての人に糸を紡いで欲しいと思っていました。このような話をしますと、それでは、職業選択の自由はないのかと、反論されることがあります。しかし、糸紡ぎは暮らしの営みであって、職業ではないのです。
 料理をして食べるように、紡いで織って着るのが、当たり前の暮らしです。汚れたらきれいにするのも当たり前です。お金になるか、ならないかに関係なく、みんなで平等に分担して行うことです。
 だから、ガンディーは、みんなで紡ごうと提案しました。そして、自らも糸紡ぎを日課にしていました。1時間で約10グラムの糸を紡ぐことができますから、皆が毎日30分から1時間、糸を紡ぐなら、全ての人が自前の衣類を手にすることができます。そういう計算になるのです。
 1日30分から1時間の時間であれば、余暇を利用して糸を紡ぐことができます。他の職業と両立することもたやすいです。もちろん機織り職人が健在だった当時のインドと違い、現代の日本では、糸をどうやって衣類にするかの問題があります。それでも、私は、とにかく1キロの糸を紡いでみませんかと提案したいです。その1キロを私の所に送ってくださるのであれば、私が布にすることもできます。このようにして、少しずつでも、暮らしをこの手に取り戻していく人を増やしたいと、私は願っています。

マリーゴールド
マリーゴールド

無理をせずに楽しみながら目指す自給の暮らし(2018.8.2.)

 

引っ越した直後で、土作りをする余裕もなかった庭の片隅で、マリーゴールドが咲きました。棉(茶棉)は、貧弱なままです。それでも、健気にも小さなコットンボールを付けてくれました。(下の写真参照)
少し離れたところにある畑の方では、藍と棉(知多木綿・白)が元気に育ってくれています。(写真はまた後日に…)

いい加減なやり方でも、毎年、綿を手にして、糸にして、布を織っていけます。大地の恵みですね。むしろ、いい加減にやっているから、楽しむことができています。

明治時代の鳥取砂丘での綿栽培は、『嫁殺し』とまで言われていたそうです。真夏の炎天下に何度も井戸から水を汲んでは、桶で水をまいたそうです。水やりをすることで、収量を上げることができます。収量を上げるために躍起になっていたのも、絣などの綿織物が商業生産されていたことと無縁ではありません。少しでも儲けようという思いが、『嫁殺し』と呼ばれるような状況を作り出していました。悲惨な状況があったから、労働から解放されることが良いことだという考えを生み出していきました。その結果、農業や手仕事が捨てられていったのです。

砂丘での綿栽培の経験はないので、一概には言えませんが、綿は、そんなに手をかけなくても、ある程度の収量は得られます。そして、ほどほどの収穫で、ほどほどの糸紡ぎ、機織りを楽しむと、慣れてくれば1年で1着の服は無理なく出来上がってくれます。そんなに無理をしなくても、1年に2,3着はできそうな気がしています。必要なのは、小さなことを毎日続けることです。これが難しいかもしれませんが、これこそが、幸せの鍵です。そして、地球との共生の知恵でもあります。
だから、私は、販売するためではなく、自給的な取り組みとして、糸紡ぎを続けたいですし、広めていきたいのです。

 

 

 

茶棉は、ひょろっとしています。あまり収穫は見込めないかもしれませんが、種はつなげると思います。今年の秋は、畑で育てている白い綿を紡いでいこうと思っています。


ガンディー思想と教育費     (2018.2.14.)
 村単位の自給自足を目指したガンディーの思想について講演させていただいたときに、次のような質問を受けました。「子どもが医師や弁護士になりたい場合、やはり大学に行かせるしかなく、お金が必要となってくる。どうしたらよいだろうか?」という質問です。
まずは肉体労働に従事して
 「みんなで肉体労働を分担して、必要な物を得ていけば、お金がなくても生きていける」というのが、ガンディーの主張で、掃除などを卑しい仕事と見なさないで、誇りを持って、すべての人が掃除をはじめ、肉体労働に従事することを求めました。
 もし、子どもが、医師や弁護士になりたいと希望するなら、なぜ、そのような仕事に就きたいかをよくよく考える必要があります。そして、エリートになりたいという思いがあるなら、考え直すことも必要でしょう。
 掃除をきちんとして衛生状態が良くなれば、病気を予防することもできます。ですから、病気になった人を治すだけの医師よりも、病気を予防できる掃除は素晴らしい仕事と言えます。また、自分たちでもめ事を仲裁できるなら、弁護士も必要ないはずです。
学費はコミュニティーで提供
 とはいえ、理想とはほど遠い現状では、医師や弁護士も必要でしょう。人のために尽くしたいからと、医師や弁護士になることを希望するのであれば、学費をコミュニティーで支えるのが良いと思います。
 北欧のように教育費を無料にするのがよいのですが、財政赤字を大量に抱えた日本では、なかなか実現できないでしょう。もちろん、教育費の財政負担を求めていくことは、して良いです。ただ、ガンディーの考えでは、やたらと政府や他者を頼るのではなく、自分たちでできることを、自分たちでやっていくことをまず考えるのが良いとしています。
 ですから、村やコミュニティーの代表として学び、卒業したら村やコミュニティーのために仕事をするという前提で、村やコミュニティーが学費を出してあげるわけです。そうすれば、親だけの負担にならなくて済みます。自給自足的な暮らしをしていても、半農半X的暮らしをして、少しばかりの金銭的収入があれば、そのような人々が数十人集まれば、一人の子どもの学費を出すことは可能でしょう。
受けるよりも与える方が幸い
 この場合ポイントになるのは、自分の子どものために、お金を出してもらいたいと思うか、他人の子どものためにお金を捧げたいと思うかです。自分の子どもを助けて欲しいと思う人ばかりではうまくいきません。他人の子どものために、無償でお金を捧げられる太っ腹の人がいないとだめなのです。一生懸命働いて、人に捧げられるような人が多くいればいるほど、その社会は愛で満たされ、豊かに発展していきます。
 北欧が高福祉を実現できているのも、実は、このような意識があることが鍵を握っています。北欧では、収入の半分は税金で持って行かれます。それが嫌だと、多くの人が思うようになれば、「税金を下げる」と主張する人が選挙で当選して、システムはあっという間に変わるでしょう。日本の福祉が貧しいのは、自分には欲しいけど、人にあげるのは嫌だと多くの人が思っている結果ではないでしょうか?

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。(聖書:使徒言行録/ 20章 35節)