アヒンサー(非暴力・不殺生の精神)


弱者の非暴力と強者の非暴力

弱者の非暴力
殺さないというだけの意味でしかない非暴力は、私には何ら訴えるものがありません。
もし心に暴力があるなら、暴力を振るう方が、無力を隠すために非暴力の外套をまとうよりもましです。いかなる時でも、無力を嘆くくらいなら暴力を振るう方が好ましいです。暴力的な人が非暴力的になる希望はありますが、無力なままでいる人にはその希望もありません。
真実とアヒンサー(不殺生)をただ機械的に支持するだけでは、危機的な瞬間がくると挫けてしまう可能性が高いです。果実を期待して断食をする者は、概して失敗します。
ガンジーが勧める強者の非暴力
サテャーグラハ(真理の宣示)は決して報復を支持しません。破壊が良いことではなく、改心が良いことだと信じるからです。
サテャーグラヒ(心理の信奉者)の武器は愛です。そして揺らぐことのない確かさがその愛から生まれるのです。
隣人愛がなければ、つまり、人が溢れんばかりの隣人愛で満たされていなければ、アヒンサー(不殺生、非暴力)の実践は不可能です。殴られても、花束をもらったように受け取ることができるような心で敵対者と接する人にのみ、それはできることです。そのような人がたった一人であったとしても、神が彼に手を差し伸べるならば、その人は一千人分の働きが可能です。つまり、最も高度な魂の力、道徳的勇気が求められているのです。
真に勇敢であれば、そこには敵意、怒り、不信などの入りこむ余地はありません。死や肉体的苦痛に対する恐れもありません。このような本質的な特性に欠けている人々は決して、非暴力を自分のものとすることができません。
神への生きた信仰なくして、真実や非暴力を実現することは不可能です。
というのも非暴力の抵抗者は、神の無限の助けを信頼しているからです。神は困難な中でずっと支えてくださいます。
出来事の中で目に見える効果が認められなくても、自らの信念を貫く生き方が求められています。自分達の行為がやがては、確固とした結果をもたらすのだと確信すべきであります。どのような困難があろうとも、自らの使命を確信している人は、挫折することがありません。
非暴力を自分の中で発展させて行けば行くほど、それは感染力を増します。そしてついには、周囲を飲みこみ、やがて世界中に非暴力の風が吹くようになるでしょう。 

非暴力とは糸車である(ガンジーの言葉より)
搾取に暴力の本質があります。ですから、非暴力を信奉する前に農村的心情を持つべきであり、農村的心情を持つには、糸車を信じなければなりません。
非暴力を準備する、もっと言えばそれを表現する最良の方法は、建設的プログラムを断固として推進することです。
建設的仕事よりも、一般民衆の不服従運動を優先させたのは私の間違いでした。人を幸福にする鍵は労働にあります。我々は農民を奴隷扱いにしてきましたが、富の本当の生産者として、彼らこそまことの主人であります。今日、インドの真の兵士は、裸の貧民に衣服を与えるために糸を紡ぎ、恐るべき食料危機に備えて食物を増産すべく土を耕す人達であります。
私は非暴力を通して人々を変えることによって経済的平等を達成したいと思っております。

 

ガンジーのアヒンサー(非暴力)の思想 その2
 「暴力は対抗的な暴力によって一掃されない
それ(暴力)は、一層大きな暴力を引き起こしてきただけである。
けれども私は、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。」
 「非暴力は決して弱者の武器として思いついたものではなく、この上もなく雄々しい心を持つ人の武器として思いついたものなのです。」

 「戦争の原因を理解し、その根本的解決を図ろうとしない限り、戦争をやめさせようとする行動もすべて無駄に終わる。現代の戦争の主な原因は、地上のいわゆる弱い民族を搾取しようとする非人間的競争にあるのでなかろうか。」

 「インドが本物の自由を手に入れるつもりであり、インドを通して世界も自由になってもらいたいのであれば、人々は都市ではなく村に、大邸宅ではなく小さな家に住まねばならないという事実に早晩気づく必要があります。都市や大邸宅で何億もの人々が平和に暮らせるはずがありません。暴力と不正義をはびこらせる以外にしようがありません。」
 「真実と平和がなければ、人間性が破壊されるだけであるというのが私の考えです。村で簡素な生活を送ることでしか、真実と平和に到達することはできません。そしてこの簡素な生き方は、チャルカ(糸車)とそれに付随する諸々の中に一番よく見つけることができるのです。今日世界が間違った方向に向かっているとしても私は恐れてはならないのです。インドもその方向に向かっている可能性があります。蛾が炎の回りで踊り狂っているうちについにその中に飛び込んで焼かれてしまう例えと全く同じような状態にあるようです。しかし、この命のある限り、そのような運命からインドを守り、それを通じて全世界を守るために働くことが私が自らに課した義務であります。」


テロなどの事件、それに対する制裁など・・・
経済的な生き詰まりを、軍需産業の振興によって打開したいと戦争を願望する心が潜んでいないかと心配です。
テロは憎いです。でも、テロを生んでしまう土壌に、私たちが全く責任がないとも言いきれないのではないかと私は思っています。
どうしようもない貧困から来る絶望感。
満足な教育も受けられず、幼いころから武器を持たされ、訓練を受ける人々の存在。彼等を貧困に陥れているのは誰かと考えた時、テロを憎むだけでは解決につながらないような気がしています。世界中の人々が等しくまっとうに生きられる世の中の仕組、新しい仕組を作らねばなりません。
また、中央集権化した現代のシステムはもろいものです。
本当の防衛は、都市という標的を作らないこと。ガンジーさんが言うような農村の再建でしかないように思います。 

沖縄のガンジーさんと言われることもある阿波根昌鴻氏は、1979年世界宗教者平和会議に次の文章を寄せています。
 「口先だけでいくら叫んだところで強い権力の座にある戦争屋に勝つことは難しい。戦争反対は生活の中から始めなければならない。彼等は私たちの分裂、ケンカを喜ぶでしょう。消費は美徳の躍らされて貧乏するのも喜ぶでしょう。不規則な生活をして病弱になることも喜ぶでしょう。時間を無駄にして勉強をしないで無知になるのも喜ぶでしょう。私たちは、戦争屋(悪魔)を喜ばさない生活をすることも大事な平和運動であると考えてその実行に努めております。」

 ガンジー思想を伝え実践することは、戦争屋を喜ばさない生活をすることにつながると私は思っています。そしてこれが、一番難しいことではありますが、一番効果的な平和運動ではないでしょうか。
                            (by 片山佳代子)


ガンジーのアヒンサー(非暴力)の思想
   ハリジャン(ガンジーが発行していた機関誌) 47.8.31日付他より抜粋 
 『人類はいつの世にも、「自己防衛」という言葉で、暴力や戦争を正当化してきました。しかし、戦争に勝とうと思えば、ナチよりももっと残忍になる必要があります。憎悪に対して憎しみで応えてもかえって憎悪が増し、傷口を広げるだけです。
 軍隊の駐屯によってパンジャーブにまずまず平和がとり戻せたように思われると、ある人が書いてきました。けれどもそのような平和は墓場の平和です。より破壊的な暴力のための準備期間と言えます。暴力によってもたらされた平和は、必然的に、原子爆弾や更に原子爆弾に対抗するすべての武器へと通じるのです。それは、アヒンサー(非暴力)と民主主義(民主主義はアヒンサーなくしてはあり得ません)を完全に否定することでしかありません。
 ところで、人類の偉大な師たちの生き様は、真の防衛は復讐をしないという生きかたにあることを見事に示しています。侵略者の意思に服従するよりは潔く死んで行く、そんな男女の列が後から後へと果てしなく繰り出される思いがけない光景を目にすれば、さすがの侵略者も、ついには心を和らげるに違いありません。実際、この場合、武力で抵抗をするほど生命の損失は大きくないでしょう。勇気は、殺すことにあるのではなく、死ぬことにあるのです。やがて侵略者の方でも、相手を苦しめても意味がないことに気付くでしょう。
 昨年インドのグジャラートで、婦人たちがラーティ(警棒)で殴打されても敢然として耐えましたし、またぺシャワールでも、多くの人々が雨のように降り注ぐ弾丸の中で暴力に訴えずに耐え忍びました。人間を獣類と区別するのは、このように道徳的水準において獣類に勝ろうとする絶え間ない努力であります。
 さて、そのような無抵抗によって、自分の生命を失えば、自己防衛もむなしいことではないか。また、イエスは十字架上で生命を失い、ローマ人ピラトが勝利したのではないかと疑問を抱く人があるかもしれません。しかし、何と言われようと勝利したのはイエスです。これは世界の歴史を振り返れば、十分明らかです。キリストの無抵抗の行為によって、善の力が社会に解き放たれたのです。たとえその途上で肉体を失ったとしても、何ほどのこともありません。生を享受するためには、生命への執着を絶つことが肝要です。
 アヒンサーの美徳を身につけるには長い実践が必要です。おそらく数世代の年月がかかることでしょう。それでも、世界の諸々の営みの総計が破壊的だとすれば、とっくの昔に世界は滅亡していたはずです。愛が、言いかえればアヒンサーが、私たちの地球を支えてくれたのです。』

アヒンサーとは
 暴力に暴力で対抗しても、暴力はなくならない、かえって憎しみが深まるばかりであります。自らが犠牲になることで、相手を改心させるのが最善の方法であるとガンジーは訴えました。これこそガンジーが世界に示そうとしたアヒンサー(非暴力・不殺生)の精神です。そして、そのアヒンサーを土台にして、糸車の取り組み(拙著『ガンジー・自立の思想』参照)がありました。
 自らが犠牲になって耐え忍ぶ行為ができるようになるには、死(肉体の)をも恐れない本当の信仰がなくてはできないことです。『肉体が滅びることで、魂が解き放たれるのであるから、死は決して恐れることではない。ただし、この世に生を受け、手足を授けられた以上、命のある限り手足を最大限に使って奉仕するのが我々の生きる道である。』とガンジーは書いています。糸車の取り組みも、このような宗教観に到達することなくしては、持続的に行っていくことは不可能です。ガンジーの言うアヒンサーは、キリスト教で言われる神の愛、アガペーに通じています。ガンジーはすべての宗教に共通する本質的なものを信仰した人でした。『もし、西洋の人々が本当の意味でのキリスト教徒であれば、植民地支配も戦争も不可能なはずである。神は完全であるが、それを伝える人間が不完全なためにどの宗教にも欠点はある。その欠点を少しでも取除こうと努めるべきではあるが、ある宗教が別の宗教よりも優れているというものではない。キリスト教徒は良きキリスト教徒に、ヒンズー教徒は良きヒンズー教徒になろうと努力していけば良いのである。』とガンジーは言います。
 戦争は本当に多くの人の人生を狂わせてしまいますが、たとえ戦争に至らなくても、例えば軍隊で訓練を受ける事は、人を野獣に変えることであると言って、ガンジーは戦争の準備行為にも強く反対しました。
 インド・パキスタンの対立、コソボでの紛争、NATO軍による空爆などガンジーの想いとは正反対のことが繰り広げられている今の世の中だからこそ、ガンジーの想いを発掘し、伝えていくことは重要です。
 
 

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