ガンジーが語る、本物の宗教とは?
 宗教が戦争の理由になったり、テロ集団と結びついて論じられたりもしますが、それが宗教本来の姿なのでしょうか。宗教とは、真実、不殺生、愛であるとガンジーは主張します。暴力の連鎖を断ち切るには、許せないことを許すしかありません。それを可能にするのが本来の宗教ではないでしょうか。私たちは、そのような本物の愛を自分のものにする必要があるのではないでしょうか。
 以下に、ガンジーが宗教について語った言葉をまとめてみました。
   
宗教と社会奉仕
   宗教教育
   
ブッダ・ジャヤンティでのスピ-チ
   宗教についての講和(神智学協会)

   YMCAでのスピーチ
   モット博士とのインタビュー

宗教と社会奉仕
S.ラドハクリシュナン氏より、次の3つの質問を受けました。
 (1)あなたの宗教は何ですか。
 (2)どのような過程を経てその宗教を信じているのですか。
 (3)その宗教を信じることで、社会生活にどのような影響をもたらしていますか。
 私の宗教はヒンズ-教です。ヒンズ-教は私にとっては人類愛の宗教で、私の知っているあらゆる宗教の良い点を含んでいます。
 2番目の質問が、過去形ではなく現在形で問うているのは、意図的であると私は解釈しています。私は真実と非暴力を追求していく過程で、すなわち、1番広い意味での愛を追求する過程で、今の私の宗教へと導かれ、信仰しております。私はよく自分が信じているのは真実の宗教であると説明しますが、最近では、神は真実であると言う代わりに、真実は神であると言うことで自分の宗教をもっとうまく言い表わそうと努めています。ある時は、ヒンズ-教のテキストで詩の形式で出てくる幾千もの神々の名前をそらんじていたこともありました。毎朝何万もの人々がおそらく暗唱しているあの神々です。しかし、今では真実という言葉ほど完全に私が信じる神を表してくれるものは他にありません。神と言われれば否定することができても、真実を否定することはできません。どんなにものをわきまえない人であっても、その人の中に真実のかけらは存在します。私たち一人一人も、真実の輝きをわずかながら放っています。この輝きの総和を言葉で表現することはできませんが、それでも、それこそが未だ知られない真実、即ち神であります。たゆまざる祈りによって神の御もと近くへといざなわれていく日々であります。
 この宗教が社会生活とどのような関わりを持つかということにつきましては、その人が通常行う社会的交際のあり方を見ればわかりますし、わかるべきものであります。上で述べたような宗教というものに真実であろうとするならば、自己を忘れ、世の中のあらゆることに絶え間なく、徹底的に奉仕していかねばなりません。この人の世という無限の大海原に自己を埋没させ、完璧に同化させない限り、真実を悟ることは不可能です。ですから、私が社会奉仕の活動から手を引くことはありえません。それを飛び越えて、それから離れては、地上の幸福はありません。ここで言う社会奉仕は、生活のあらゆる分野を網羅するものととらえるべきです。この考えに従えば、貴賤の別はありえません。すべては一つです。ただいろいろに見えるだけです。
            S.ラドハクリシュナン著、現代インド哲学P.21
       

宗教教育
グジャラ-ト学校の生徒の一人が次のように書いてきた。
 「学校での宗教教育はどのような形態を取るべきでしょうか。」

 私にとって宗教とは、真実とアヒムサ-(不殺生)である。もっと言えば、真実ただそれのみとも言える。と言うのも真実には不殺生が含まれるからだ。不殺生は真実を発見するのに必要かつ欠くべからざる手段である。それ故、このような徳の実践を進めること全てが、宗教教育の手段となる。そしてその最良の方法は、私の考えでは、教師自らがこれらの徳を厳格に実践することだ。教師と子供たちとの交流こそが、運動場であろうと教室の中であろうと、生徒たちの基本的徳を形成する素晴らしい訓練となる。
 宗教の普遍的本質の指導についてはそのくらいである。宗教教育の教育課程には、自分の宗教とは異なる宗教の教義について学ぶ機会を取り入れるべきだ。この目的のために、生徒は世界の主な宗教の教理を敬意と寛大な広い心でもって理解し、共感を示す習慣を培う訓練を受けるべきである。もしこのことが適切に行われるならば、この訓練によって生徒は自らが信じる宗教をより確信を持って、より深く理解することができるようになる。しかし、これら主だった宗教を学ぶ際に常に忘れてはならない規則が一つある。それは、それぞれの宗教のために熱心に働いている有名な人が書いたものからのみ、その宗教について学ぶべきであるということだ。例えば、バガヴァッド(Bhagavata)を学びたければ、それを批判する者による翻訳ではなく、バガヴァッドの愛読者が書いた書物を用いるべきだ。同様に、聖書を学ぶには、敬虔なキリスト教徒が書いた解説書を使用して学ぶ必要がある。このように自分が信じる宗教の他にさらに別の宗教を学ぶことで、その人は、全ての宗教は最も奥深いところでつながっているという意識を持つようになり、教義・信仰といった塵のかなたに横たわる宇宙の絶対的真理というものについてもおぼろげながらわかってくるようになるであろう。
 敬意を表して他の宗教について学ぶことで、自分の宗教に対する信仰心が弱まったり揺らいだりするのではないかという恐れをどなたも1分たりとも抱かないでいただきたい。ヒンズ-教の哲学では全ての宗教に真実の要素が含まれていると見なし、それらすべてに対して敬意を表し、尊重する態度を取ってきた。もちろん、己の宗教を尊重するのを前提にしての話である。他の宗教について学び、敬意を表することが、必ずしもその己の宗教に対する敬意を弱めることにはつながらない。自分の宗教を尊重する気持ちが、他の宗教へも広がっていくようになるはずである。
 この観点でいえば、宗教は文化と同様の基盤に立っていることになる。自身の文化を保持することが、他の文化を蔑ろにすることにはならず、むしろ他の文化にある良いところを自分のものとしていくことが要求されるのと同様に、宗教についてこそそのようなことが求められる。我々が今日恐れ、不安を抱いているのはこの国で醸し出されてきた有害な雰囲気のせいである。互いに憎しみ、敵意を抱き、不信感を持つような雰囲気のせいである。自分たちのあるいは自分たちにとって大切な近しい人々の信仰を弱めてやろうとだれかがこっそりと謀っていたらいけないと恐れる悪夢のために我々はいつも判断を誤っている。しかし、我々が他の宗教やその信奉者たちに対して尊敬と寛大さを培うことができるようになれば、この不自然な状態はなくなっていくものである。
ヤング・インディア、1928年12月6日
      

ボンベイのブッダ・ジャヤンティでのスピ-チ
仏陀はこの世に新しい宗教を創設したわけではありません。新しい解釈をしたのです。彼はヒンズ-教徒たちに命を奪うのではなく、命を捧げることを教えました。真の犠牲というものは、他のものを犠牲に供することではなく、自分自身を捧げることです。ヒンズ-教徒はヴェ-ダに攻撃が加えられることに対しては、必ず腹を立てます。ヒンズ-教徒は、新しい解釈をそのような攻撃とみなしました。そこで、仏陀の教えの中心にある真実は受け入れながらも、仏教を新種の反ヴェ-ダ派とみなして、戦ってまいりました。
・・・
(ヒンズ-)僧侶は預言者(仏陀)を犠えにしてきました。神から出たものであるヴェ-ダは生ける言葉であるはずで、絶えず増し加わり、拡大し、新たに起こってくるものに対しても順応していけるものであるはずです。僧侶は文字にしがみつき、霊的なものを忘れてしまっておりました。
 しかし、絶望するには及びません。仏陀が試みた改革についてはまだ公正な裁断がなされたわけではありません。この世の誕生からの年月を考えれば、2500年など無に等しい期間です。姿形の進化に測り知れない期間が必要であるというのに、思考や行動の進化にあっと驚くようなことを期待するとはどうしたことでありましょうか。しかし、奇跡の時が過ぎ去ったわけではありません。個人にとってもそうでありますし、国についてもあてはめることができます。集団が突然変えられ、高められるということが十分起こり得ると私は考えます。突然というのは見かけだけのことです。酵母がどのくらい前から働いているのか誰にもわかりません。最も強い働きをする力というものは見ることができないものです。長い間感じることすらできません。しかし、それにもかかわらずその力は確かに働いているのです。私にとって宗教とは、至上の見えない力に対するやむことのない信仰であります。その力が以前人類を驚かせました。そして、また私たちをも驚かさずにはおきません。仏陀は見かけに惑わされないで、真実と愛が最後には勝つということを信頼するようにと教えました。この教えは、ヒンズ-教にとっても世界にとっても比類なき贈り物です。
 仏陀はまた、どのようにしてそれを実践するかについても教えてくれました。と言いますのも仏陀は、教えの通りに生きたからです。布教する最良の方法は、物を書き散らすことではありません。むしろ、私たちの一人一人が、世の中の人々にしてほしいと思う生き方をして見せることです。
ヤング・インディア 1927年12月8日
      

宗教についての講演  神智学協会、ヨハネスブルグロッヂ
 ヒンズ-教を特徴づける主要な要素は、ブラ-マン、すなわち大霊は万物に宿るという信仰です。我々が目指すべきものは解脱、つまり自由です。解脱がここで意味することは、諸悪の根源である輪廻転生から逃れ、ブラ-マンとなっていくことです。現世の雑事においてはカ-ストが全てを支配しておりますが、それでも彼らの主要な倫理規範は謙遜であり、捕われない心であります。
・・・マホメッドは1300年前に生まれましたが、彼はアラブに悪徳のはびこる堕落した社会を目にしました。ユダヤ教はともしびを消さないようにするのがやっとの状態でした。キリスト教はその地に足掛かりを得ることができませんでした。そのような中で人々は自由のしほうだい、放縦にふけっていました。マホメッドは、これらすべてを間違っていると感じ、心が痛みました。そして神の名にかけて、この悲惨な状況を人に知らしめようと決意しました。彼は強く決意し、その情熱によって自分の周りの人々をすぐに感化させることができ、そしてイスラム教は急激に広まって行きました。その当時、熱意、情熱というものがイスラム教に特異な、強い力でありました。このおかげで多くの良い行いがなされましたが、時には悪いことも起こりました。千年前にガズニ朝の大軍がイスラム教を広めようとインドに侵入してきました。ヒンズ-教の偶像は破壊され、侵略者はソムナ(Somnath )まで達しました。一方では暴力が使われながらも、イスラム聖徒たちが他方で真実なるイスラムの徳を伝えていきました。イスラムを信じるものは全て平等であるとするイスラム教の教義は、下層階級のものたちに熱狂的に受け入れられ、何百人、何千人というヒンズ-教徒がその教えを受け入れました。集団全体が熱狂の渦に巻き込まれました。
このような出来事を経て、ヒンズ-教とイスラム教が今日のインドに2大宗教として広く行き渡っているにもかかわらず、両集団が平和に仲良く暮らしているわけです。政治的な企み、熱狂から生じる苦々しさを除けば、互いの感情を害さないように気を遣って暮らしております。ヒンズ-教もイスラム教もその修行者に違いはほとんど見られません。
 イスラム教とヒンズ-教がこのように互いに張り合っている一方で、キリスト教も約500年前にゴアの港に伝えられました。そして、ヒンズ-教からキリスト教への改宗が始められました。時には力にものをいわせ、時には説得を通して改宗が行われました。宣教者の中には非常に心の優しい、親切な人もおりました。むしろ聖者と呼ぶべき人もおりました。イスラムの行者たちと同様に、彼らもヒンズ-社会の下層階級の人々の心を深く揺さぶりました。しかし、後にキリスト教と西洋の文明が一体となってくると、ヒンズ-教徒等はその宗教に異議を唱えるようになりました。そして今日、キリスト教徒が巨大な王国を支配しているにもかかわらず、キリスト教を信仰するインド人はそれほどいないのがわかります。しかしながら、キリスト教はヒンズ-教に非常に大きな影響を与えてきました。キリスト教の牧師が高等教育を知らしめ、ヒンズ-教の醜い欠点をいくつか指摘しました。その結果、ヒンズ-教の教師の中にカビールのようなすぐれた人物が他にも現れました。彼らは、ヒンズ-教徒たちにキリスト教にどんな良い点があるかを教え、ヒンズ-教のそのような欠点を克服するように指導しました。・・・そして、ブラフマ協会、ア-リヤ協会など数え切れないほどの宗教改革団体が今日のインドに誕生してたのも、キリスト教の影響にまちがいありません。
 これまでで、ヒンズ-教が仏教に始まり、イスラム教、キリスト教という3種類の宗教によるどのような攻撃にさらされてきたか、しかもそのような攻撃を受けながらも、ほぼ無傷なままに今日に至るのはどのような理由によるのかを見てまいりました。これらの各宗教の良い点については、すべて取り入れていこうとヒンズ-教はしてまいりました。しかしながら、このヒンズ-教という宗教に従うものたちが、信じていることは何かを私たちは知っておく必要があります。彼らの信仰は次のようなことです。神が存在しており、その神に始まりはなく、完全無欠の存在であり、姿形を取らない。神は、時空を越えて存在し、万能であること。そして、神とはもともとバラモン(梵天)でした。神は何も行わず、何かを仕向けることもありません。統治はしません。至福であります。そしてその化身によってこの世のすべてが保たれています。また、魂が存在し、それは肉体とははっきりと区別されております。魂にもまた、始まりも、誕生もありません。魂のもともとの形とバラモン(梵天)の間に違いはありません。しかし、カルマの結果としてあるいはマ-ヤの力に押されて魂は、時折肉体をまといます。そして、その行いの善し悪しに応じて、高等もしくは下等な種に何度も何度も生まれ変わることをくり返します。この輪廻転生の回転からのがれて、バラモンと一体化することが解脱です。この解脱を達成するには、混じり気のない善行を為し、生きとし生けるものすべてに哀れみをかけ、真実な生き方をせねばなりません。ところが、たとえこのような段階に達することができたとしても、解脱を得ることにはなりません。と言いますのも、善行の結果体現された状態を喜んで受け入れるようでなければならないからです。つまり、もう一歩踏み出す必要があります。もちろん、行動は続ける必要がありますが、行為に付随して何か見返りを期待するようではだめです。行為はそれ自身のためだけに為されるべきです。その果実に目を向けてはなりません。つまり、全ては神に捧げられるべきです。夢の中でさえも、何かをしているまたはすることができるといって得意になることは許されません。全てのものが対等であると見るべきです。これらがヒンズ-教が信じている教義であります。しかし、いくつもの学派が存在するのも事実です。世俗的な習慣(の違い)に起因して、いくつかの派閥、宗派も興ってきました。しかし、この場でそのことについてふれる必要もないでしょう。
インディアン・オピニオン 1905年4月15日
      

コロンボ、YMCAでのスピ-チ
私は自分がキリスト教徒ではないといっても、その断固とした否定を本気にとってくださらない方もいらっしゃいます。
 イエスの教えは、私の理解するところでは、山上の垂訓にそのまま全体が含まれております。そして、この山上の垂訓に関してでさえも、私自身の控えめな解釈は多くの点で正統派の方々と異なっております。私の考えでは、その教えは西洋に伝わってゆがめられていると思っております。私がそのようなことを言いますのは、憶測にすぎないかもしれません。しかし、真実に帰依するものとして、私は自分が感じていることを告げるのをためらうわけには行きません。この世がキリスト教に関する私の意見を聞こうと待ち構えているわけではないことも私は知っております。
 その人の信じる宗教というものは、結局のところその人と創造主との問題であり、他人とは関わりのないものであります。しかしながら、今晩私の考えを皆さんと分かち合いたいと感じておりますのは、真実を追求するのに皆さんの支援をいただきたい思っておりますし、キリスト教徒である多くの友人がイエスの教えについての私の考えというものに興味を持ってくださっているからです。山上の垂訓とその自己流の解釈だけを取り上げて言うので良ければ、「はい、私はキリスト教徒です」とためらわずに言うべきでしょう。しかし、今の状況でもし私がそのようなことを言えば、大変由々しい誤解を生じることになってしまいます。さらにその時には、私にとってキリスト教とはどのようなものかを皆さんにお伝えせねばならなくなり、詐欺師の異名をとどらかせることにもなりかねません。しかも、私流に解釈したキリスト教を皆さんにお話しようという気は、私には毛頭ございません。しかし、これはキリスト教ではないという言い方で言わせていただけるなら、今日キリスト教として通用しているものの大半は山上の垂訓を否定しているような気がしております。どうか私のこの言葉を心に留めておいてください。私は今ここでキリスト教徒たちの行動について言っているのではありません。キリスト教の信仰について、西洋で理解されているところのキリスト教について申しております。
 思ってはいても、その通りには行動できないのが残念ながら世の常です。しかし、私は批判としてこのようなことを言うつもりはありません。私自身の貴重な経験からしましても、いつでも絶えず自分の信じ告白した通りの生き方をしたいと思っていながら、私の行動と言えばそこまで達してはおりません。ですから私がこのようなことを批判などできるわけもありません。ただ、私が直面しております根本的な問題を皆さんにお示ししているわけです。1893年に南アフリカで祈り学ぶものとしてキリスト教の聖書を学習し始めたとき、私は自問自答したものでした。「これがキリスト教だろうか」と。そしてヴェ-ダが語るneti neti (これではない、これではない)という答えを耳にしました。そして、私の心の深いところで、この私の気持ちが正しいことを感じておりました。
 私は自分が信仰と祈りの人間であると思っております。そして、たとえ私がばらばらに切り刻まれるようなことになろうとも、神を否定しないだけの強さを、さらに神の存在をを告げ知らせる強さを神は私に与えてくださるはずです。イスラム教徒は、唯一の神の存在を信じそれ以外の神はいないと言います。キリスト教徒も同じことを言い、ヒンズ-教徒も同様です。またもし私がこのようなことを言うなら、仏教徒でさえも同じことを別の言葉で言うことでしょう。神という言葉に対して、私たちそれぞれが別の解釈を与えているのかもしれません。神は私たちのこの小さな星だけでなく、何百万、何十億もの似たような星を包み込んでおられます。この頼りないちっぽけな地上を這う生き物として神によって創造された私たちは、どのようにして神の偉大さ、神の無限の愛、果てしなく差し伸べられる手を測り知ることができるというのでしょうか。その大きな愛ゆえ神は、人間がぶっきら棒にその差し伸べられた手を振り払い、尊大にも神を否定し、神に対して怒りの声を上げることをも、仲間の人間の咽をかき切るような行為をも堪え忍んでおられます。そのようにまで、罪を許す、神聖な神の偉大さをどのようにして測り知ることができましょうか。ですから、私たちが同じ言葉を発したとしても、私たちすべてにとって同じことを意味しているわけではないのです。そこで、話をしたり、物を書いたりすることを通して改宗をせまるつまり、シュッディshuddhi (ヒンーズ-教への再改宗)またはtabligh をする必要はないと言っているわけです。私たちの生き方を通してのみ、そのようなことは本当に可能となります。誰もがそこから学べるような生き方を白日の下にさらそうではありませんか。伝道師である友人たちが自分たちの使命についてこのような考え方を持ってくれるようにと説得できればよいのですが。そうすれば、不信感、疑い、嫉妬、不和の入り込む余地はありません。
・・・
イエスの教えと、いわゆる近代文明と言われるものを混同しないでください。運命を共にすることにした人々に対して無意識に暴力をふるうようなことはやめてください。皆さんに念を押しますが、東洋の人々の生活を根っこから切り離すことなどその天職には含まれておりません。彼らの中にある良さについては、寛容な心で包み込み、先入観にとらわれてせっかちに彼らを批判したりしないでください。
 裁いてはいけません。裁かれないためです。皆さんは西洋文明の偉大さを信じ、皆さんがこれまでに成し遂げたことについて誇りもお持ちでしょう。しかしながら、皆さんにお願いしたいのですが、疑問を挟み込む余地も少し残しておいていただきたいのです。テニソンも詠っておりますように、その過程でもっと深い真実が見いだせるのです。もっともテニソンの「疑う」は、明らかに別のことを意味しておりました。各々が自分たちの生活をしようではありませんか。もし、自分たちの生き方が正しいというのであれば、どうして急ぐ必要がありましょうか。その生き方がひとりでに他に影響を与えていくはずです。
 お若いセイロンの友人の方々には、西洋伝来のはなやかさに目を眩まされないようにということを申し上げたいと思います。この過ぎ去っていく見世物に足元をすくわれないようにしてください。すべてをお見通しの方があなた方に決して忘れてはならない言葉で語ったではありませんか。この人生というものは、過ぎ去っていく影に過ぎないと。あっという間のはかない物に過ぎないと。目の前に見えるすべての物がいかに空虚な物であるかに気づくならば、目の前に見えて絶えず変化を被っているこの物質の入れ物が空っぽであることがわかれば、実に宝は天にあるわけです。そして、地には平安があります。全ての理解を超えた平安でありますし、私たちには全く知り得ない幸福であります。それには驚くほどの信仰、すなわち神聖な信仰と目の前にある全ての物に執着しないことが必要です。
 仏陀は何をしましたか、キリストは、またマホメッドは何をしましたでしょうか。彼らの生き方こそ、自己犠牲、自制を貫いた生涯でありました。仏陀はこの世の幸福を全て放棄しました。真実の追求のために犠牲を払い、困難を忍んだ者が手にできる幸福をこの世の人たちと分かち合いたかったからです。エベレスト山に登頂することが、山頂にたどり着き、短時間の眺めを楽しむために貴重な命を犠牲にすることが良いことであるとするならば、世界の最高峰に旗を立てるために一人また一人と命を捧げることが名誉あることであるとするならば、強力かつ消えることのない真実を求めるために一つの命どころか、何百、何十億もの命を捧げることがさらに尊いことでないはずがありません。ですから、浮き足立たないようにしてください。先祖代々の簡素な生活様式を捨て去らないでください。
 今日、欲望を拡大させることに血眼になっており、しかも漠然と、自分たちは本物をこの世の本当の知識を増やしているのだと考えている人々が、後戻りして「我々を何をやってきたのだろう」と言うようになる時代が近づいております。文明はやってきて、去ります。我々が自慢げに語る進歩にもかかわらず、私は「いったい何のための進歩なのか」と自問せずにいられません。現代のダ-ウィンであるウォレス氏はいみじくも同様のことを言っております。素晴らしい発明、発見がなされた50年間の歩みにもかかわらず、そのおかげで人類の徳は1インチたりとも高められはしなかったと。お望みなら夢想家、予言者とでも呼べるトルストイも同じことを言っております。イエスも仏陀もマホメッドも、彼らの宗教は今日わが祖国では否定され、歪曲されておりますが、彼らも同じことを言っております。
 山上の垂訓が示した泉の底からわきでる水を飲みなさい、しかし、その後は粗布をまとい、灰にすわる必要があります。垂訓の教えは私たち全ての者に向けられています。神と富の両方に仕えることはできません。慈悲深く、罪を許し、寛大な化身である神は、富に酔いしれる一時の栄華に辛抱しておられます。しかし、私はセイロンの若者である皆さんに言わせていただきたいのですが、その自滅的で破壊的な富の戯れから是非手を引いてください。
ヤング・インディア、1927年12月8日
      

ジョン・モット博士とのインタビュ-
モット博士(M):インドが、世界発展に寄与できる最も重要な分野は何であるとお考えですか。
ガンジー(G):非暴力です。有史以来前例のない規模で今日この国で行われている非暴力です。もし、その非暴力がなければ、怒りが爆発していたかもしれません。と言いますのも、政府の側にしてみれば、非常に苛立つことがたくさんあったからです。暴力を支持する一派がこの国にもいることは間違いない事実です。しかし、それは表面に現れた突起物に過ぎません。彼らの理念が、この国で根を下ろすことはないと思われます。
 ヒンズ-教がインド文化に果たした最も特徴的かつ最大の貢献は、アヒンサー(不殺生)の教義にありました。過去3千年以上に渡って、この国の歴史に決定的な流れを与えました。そして、今日でさえ、インドの何百万もの人々の生命の源であることをやめてはおりません。この教義はますます浸透してきております。その教えは今も語り継がれており、人々の間に深く行き渡っているおかげで、インドでは武器を使った革命は、ほとんど不可能な状態になっております。これは、インド人が肉体的に弱い人種であるからだと思われているかたがあるかもしれませんが、そんなことはありません。と言いますのも、残忍な意思を持つものが人を撃ち殺すために引き金を引くのに、それほどの肉体的力を必要とするわけではないのですから。これはひとえにアヒンサーの伝統があまりにも深く人々に根づいているからであります。
 インドという国の文化にイスラム教が特徴的に果たした貢献は、神は唯一であるという純真な信仰と、形だけの交際しか持つことができなかった人々に友愛精神に則った真実の行動を起こさせたことにあります。私はこの二つのことを特徴的貢献と思っております。と言いますのも、ヒンズ-教では友愛の精神というものが非常に哲学的になっているからです。同様にして、観念的にはヒンズ-教にも唯一の神以外に神は存在しないことになっておりますが、実際のヒンズ-教においては、イスラム教のように断固として妥協しないというほどではありません。

M: それでは、インド国民の生活にキリスト教はどのような貢献をしましたでしょうか。キリスト教と言いましても、救い主キリストが及ぼした影響のことです。今日では、この二つに大きな違いがあるのではないかと思われますので。
G: はい、そこのところが問題です。その宗教を信じる人々の生活と区別して、宗教が教えることを判断することは不可能です。不幸なことに、インドにおけるキリスト教は過去150年の間イギリスによる支配と分かつことができないほどない混ぜになっております。我々にとってキリスト教とは、物質文明と、強い白人が世界の弱い人種を搾取する帝国主義とほぼ同義語であります。そのようですから、キリスト教がインドに対して行ったこともおおむね否定的なものにならざるを得ません。そのような信仰を告白する人々にもかかわらず、良い影響も少しはあります。衝撃的に気づかされて我々は、各自の家をきちんと整えるようになりました。キリスト教の宣教師が書いたものに触発されて、自分たちの悪い行いに目を向け、考え直すようになったこともあります。

M: 私が最も興味をそそられるのは、不可触民撤廃に関わる仕事に携わっていらっしゃることです。おっしゃられるようにこの制度が今や風前の灯となっていることを示す最も有望な兆候について教えていただけないでしょうか。
G: ヒンズ-保守派において見られる反応と、その反応の急激な現れ方です。最もわかりやすい例としてパンディット・マラヴィヤジ(Malaviyaji) をあげたいと思います。10年前であったならば、彼は不可触民に関する規則を守る点についてはその当時の最も保守的なヒンズ-教徒にひけを取らないくらい厳格でありました。ところが、今や彼はガンジス川のほとりで不可触民の浄化を願ったマントラ(真言)を唱えていることを誇りとしております。そして時には、理性をわきまえない保守派たちを非常に激怒させることさえありました。彼はまさにこのことをやっていたがために、昨年の12月カルカッタで、例の頑迷な一派に暗殺されかかりました。ワルダ(Wardha) では、富裕な商人であるセス・ジャラル・バジャジ(Sheth Jamnalal Bajaj)が、自ら所有する豪華な寺院の門戸を不可触民に開放しましたが、大きな反対の声は上がりませんでした。そのことで、最も特筆すべきこととしましては、寺院に参拝する人々を毎日記録したものから、不可触民に寺を開放してから参拝者が減るどころか、増えたことがわかりました。このような現象から不可触民に対する態度は近い将来ますます勢いを増して変化していくものと、十分期待してよかろうと思われます。今でもそうですが、驚くべき速さで変化していくことでしょう。

M: どのようなお仲間がいらっしゃいますか。この事業について、イスラム教徒、キリスト教徒から支援をいただいていらっしゃるのですか。
G: この件に関しては、その性格上イスラム教やキリスト教の信者の方に手伝っていただけることは、ほとんどありません。不可触民を廃止するということは、純粋にヒンズ-教を浄化するという問題であります。ヒンズ-教の内側からしか改革のしようがありません。

M: しかし、私の印象では、この件に関しては、キリスト教の信者たちが大いに手を貸すことができるような気がしておりました。英国国教会伝導団のホワイトヘッド主教は、不可触民の状況を改善するのにキリスト教の大衆運動がマドラス州において果たした役割について心に響く発言をされております。
G: 私はこのような種類の大衆運動というものを支持してはおりません。彼らの目的は、不可触民たちを勇気づけることではなく、そのような人々が最終的に改宗するように仕向けております。多数の人間を転向させようとする動機が背後に見え隠れしておりますので、私の考えでは、このようなことは、伝導の努力の妨げになっているのではないかと思われます。

M: この点に関しては相反する意見もあります。心からキリスト教を受け入れたほうが、不可触民達の暮らしぶりは良くなり、より良い人生が送れるようになるはずだと真剣に信じていらっしゃる方々もおります。
G: 残念ながら、私はこの意見に賛同できるはっきりとした根拠を未だ目にしたことがありません。一度、キリスト教徒達の村に連れていかれたことがありましたが、改宗者達の中に、霊的転換に付き物の心のうちを自由に語る快活な態度を見出すどころか、はぐらかそうとする雰囲気が感じられました。話をするのも彼らは恐れておりました。このようなわけですから、私は良くなったのではなく、むしろ悪くなったと確信しております。

M: それでは、改宗というものをすべて否定するお考えですか。
G: 他人の働きかけで、一人の人間が改宗するということを私は信じておりません。私は、他人の信仰を揺るがせようなどとしたことは決してありません。それどころか、その人には自らの宗教をもっと熱心に信じる信者になってもらいたいと思ってきました。そうすれば、すべての宗教に真実があるのがわかり、それ故、他人の宗教にも敬意を払えるようになるからです。さらにまた、真の謙虚さを持つようになります。すなわち、神の光は不完全な媒体である肉を通してすべての宗教に当てられているという認識を持つようになります。宗教というものは、どれも多かれ少なかれ、伝える者の不完全さを分かち持っているものなのです。

M: 私たちが持ちうる最大限の真実を共有できるよう周囲の人々を助ける務めがあるのではないでしょうか。私たちは、この深遠なる霊的経験を彼らと分かつ義務があると思うのですが。
G: 残念ながら、この点に関してもあなたにご同意いたしかねます。理由は簡単です。深遠なる真実というのは、決して手に入れられないものだからです。今仰いましたその光は、言葉をはるかに凌ぐものです。心の内なる経験によってのみ感じることのできるものです。そして、さらに最高の真実というものは伝達の必要がありません。なぜなら、その本来の性質により自らを証ししていくものだからです。薔薇がその香りを媒体の助けを借りずに漂わせるように、真実もまた静かにその影響を及ぼしております。

M: しかし、神でさえも時には預言者を通して語りかけられるのではありませんか。
G: はい、仰る通りです。しかし、預言者は舌を使ってではなく、その人生を通じて語ります。もっとも、私のこの考えは、キリスト者の考えとは真っ向から対立しているようですが。

M: いえいえ、キリスト者の中にもある考え方の一派があって、その数は増大しております。彼らは、権威主義的なやり方は取らずに、むしろ個人がそれぞれ自分で人生の奥深い真理を見つけ出すように仕向けるのが良いと考えております。これに先立つ主張としましては、霊的な発見の過程は各個人が必要とすることや、各人の気質によって異ならざるを得ないというものです。別の言葉で言いますなら、信じなさいと言う言葉で布教していくことが最善の方法ではないと彼らは気づいているのです。
G: あなたにそう仰っていただけて私も嬉しいです。そのことこそまさにヒンズ-教が繰り返し説いていることです。

M: 自分の貧しさを克服しようとしてできないでいる若者が、アドバイスを求めてやってきた場合どのような助言をなさいますか。
G: ただ、祈リなさいと教えます。人は完全にへりくだり、自分を越えたところから力が与えられるように求めねばなりません。

M: しかし、祈りが聞かれないと若者が申し立て、まるで真鍮でできた空に向かって声を上げているようなものだと言ってきたときにはどうされますか。
G: 祈りに返答を要求するのは神を試みることになります。もし、祈りがやすらぎをもたらさないのであれば、それは口先だけの祈りに過ぎないからです。もし、祈りが役に立たないのであれば、ほかの何が役に立つでしょうか。絶えず祈り続けねばなりません。ですから、自分自身の状況がどうあろうと、すべてのものに打ち勝つ力を秘めた愛と真実というものを信じなさいというのが若者への私からのメッセ-ジです。

M: 今日の若者の問題として、科学と近代哲学を学んでいるために信仰が蝕まれ、不信感にさいなまれているということがあります。
G: それは、若者が信仰を知性で理解しようとして、信仰が魂の経験でなくなっていることに原因があります。知性も人生の戦いにおいてある程度までは、歩みを共にしてくれます。しかし最も肝心なところでそれは役に立たないのです。信仰は理性に優ります。この世が闇で閉ざされ、人間の理性というものが地に落ちてしまったまさにその時に、信仰はその輝きを最も増し、我々に救いの手を差し伸べてくれます。若者に必要なのはこのような信仰です。このような信仰は、知性のプライドを脱ぎ捨て、我が身を神の意思に完全に委ねたときに手にすることができます。
ヤング・インディア、1929年3月21日