ガンジーがなぜ糸紡ぎをしていたか、そして、今なぜそれが重要なのか、いろいろなところでお話をさせていただいていますが、限られた時間の中で、ガンジーの生涯にわたる実践のすべてを語ることはできません。
 何度も聞きに来てくださる方のために、新しい視点についても触れているうちに、以前は語っていたことでも、語れなくなっていることもあります。
 そこで、このページでは、そのすべてを少しずつ紹介していきたいと思っています。時間の関係で省いてしまったガンジーの言葉なども、たっぷり引用したいと思っています。

目次 
1.暴力とは何か
2.なぜ綿にこだわるのか
 2.1.何を食べ、何を着るか
 2.2.日本綿について
3.近代機械文明批判 その1
               その2
4.欲望を愛で置き換えて

1.暴力とは何か? 軍隊がなければ非暴力なのでしょうか?
 直接的暴力=肉体的な攻撃を加えること、
 
構造的暴力=先進国の日常生活(何を食べ、何を着るか)が、途上国の人々の命を奪っている。
 日常生活に潜む構造的暴力、経済の仕組みが、戦争以上に人々を
殺している。 飢餓輸出
植民地になる前となった後のインド
:自給自足型の農村社会   
  優れた手織りの綿織物産業⇒ヨーロッパに輸出
:原料を供給して、工業製品を購入
  手仕事の崩壊、失業、貧困
貧困こそ最大の暴力である。
「経済戦争も武器による戦闘と同じくらい悲惨です。武器の戦いが外科手術であれば、経済戦争は延々と続く拷問です」(M.K.ガンジー The Hindu, 1926年11月8日)
「3億9千万人の死骸の上に1千万の人々が生きている光景には耐えられません。」(『ガンジー・自立の思想』p.164)

 日本は、戦後は憲法9条をもち、戦争で一人も殺すことなく、平和国家の道を歩んできたと多くの人が思っています。それは事実ですし、素晴らしいことです。でも、武器を使わなくても人を殺せるのです。私たちはそのことにも目を向ける必要があるのではないでしょうか?
 そして、実は、私たちが何を食べ、何を着ているかという日常生活が、多くの人々の命を奪っています。これが構造的暴力です。
 植民地になる前、インドは自給自足型の農村社会でした。優れた手織りの綿織物産業が栄えており、ヨーロッパにも輸出されていました。綿花は熱帯の作物ですので、寒いイギリスでは育ちません。イギリスでは羊毛を紡いで織る毛織物が主流でした。しかし、夏の衣類、シーツやカーテンとして、インドの優れた綿織物はヨーロッパで人気があったのです。
 綿織物産業によって、外貨を稼いでいたインドは豊かな国でした。
 イギリスで産業革命がおこりました。産業革命は織物産業から始まりました。大量の布が生産できるようになったのです。そうなると、機械を動かし続けるためにも、ウールだけでなく、綿織物もイギリス国内で製造するようになりました。インドから綿花を調達して、イギリスの工場で綿織物が製造されていきました。機械化が進むにつれて、英国内で必要とされる量を超える織物が生産できるようになり、売り先に困るようになりました。そこで目をつけた先がインドでした。インドを植民地として支配下に置き、インドの綿織物産業を徹底的につぶして、イギリスの工場で製造した綿織物を無理やり買うように仕向けたのです。
 その結果、以前であればヨーロッパに綿織物を輸出していたインドが、原料の綿花を輸出して、製品となった織物を輸入する国へとなりました。安い原料を輸出し、高い製品を買うわけですから、富は流出します。
 しかも、それまで、糸紡ぎや機織りに従事していた多くの労働者が仕事を失い、路頭に迷うことになりました。ここにインドの貧困の原因があります。
 そして、この構造は、今も続いています。先進国は安い原料を調達し、高い製品に加工してそれを輸出する加工貿易で富を築いています。一方、途上国は原料を安い値段で提供し、製品を高い値段で購入させられています。この構造が続く限り、途上国が豊かになることはありえないのです。ここに構造的暴力が存在します。
 多くの国が工業国の仲間入りしようと努めてきました。富を吸い取られる側であることをやめ、吸い取る側に回ろうとしたのです。
 しかし、ガンジーは、吸い取る側、いわゆる加害者になるのではなく、自立した道を歩もうとインドに提案しました。それが糸車を回すことです。
ガンジーの言葉
工業化は人類にとって禍根を残すものとなりそうです。ある国が他の国を搾取するということをいつまでも続けられるわけがありません。工業化の成否は、搾取できるかどうかにすべてかかっています。つまり、外国の市場が開かれていて競争相手がいないことが鍵です。英国にとってこのような要因が日々ますます少なくなっているために、英国の失業者は毎日増え続けています。インドによるイギリス製品のボイコットなど、蚤が噛みついている程度のことに過ぎません。英国の状態がそのようなものであるならば、インドのような広大な国が工業化によって利益を得ることなどとうてい望めません。インドが他の国々を搾取し始めれば、(工業化すればそうなるのは目に見えていますが)搾取を始めた時にインドは他の国々にとって災いの元となり、世界に対する脅威となるでしょう。工業化していくインドが他国を搾取することになるとどうして私が考えるかと思われるかもしれませんが、現状の非劇が目に入りませんか。つまり、3億の失業者に仕事を見つけてやることができるでしょうか。英国でさえ、3百万人にどんな仕事も与えられず、英国の優秀なる知識層を困惑せしめる問題に直面しているのです。
(『ガンジー・自立の思想』p.101)
 ガンジーの時代のインドの人口は4億人でした。そのうち3億人が失業あるいは半失業状態でした。インドに工場を建てて失業者すべてに仕事を提供しようとすると、たくさん作って海外にも売りつけるしかありません。そのために市場として植民地を所有することが必要となってくるのです。
 そんなことは不可能だし、仮にできるとしても、それはインドが加害国となることです。
 もちろん、今はどの国も植民地を手放しましたが、もっと巧妙なやり方になっただけです。企業戦士が背広を着て、搾取を続けています。だからいつまでたっても南北問題は解消しないのです。
ガンジーの言葉
人手があまりにも少ない上にやらねばならない仕事が大量にある場合には機械化もよいことです。インドのようにその仕事のために必要とされる以上の人手が既にある場合には、機械化は罪悪です。・・我々の問題は、村に居住するあふれるほどの人々にいかにして余暇を与えてやるかということではありません。問題はどのようにして何もしていない彼らの時間を活用していくかということです。・・工場労働者は一人で村で同じ仕事をしている少なくとも10人分の仕事を行っているというくらいのことは言っても大丈夫でしょう。つまり、仲間の村人10人を犠牲にしてこの工場労働者は、自分がした以上のものを得ているのです。このように、紡績、織物工場は村の人々から重要な生活の糧を奪っています。(『ガンジー・自立の思想』pp.105-106)
「建設的プログラムの有効性を信じない人は、飢える大多数の人々のことを具体的に思いやることがない 人だと私は感じるのです。そのような思いやりの感情を欠いていれば、非暴力のやり方で闘うことができません。非暴力の最善の準備、さらにはその最善の表現形態は、建設的プログラムを断固として推進することにあります。」(ハリジャン1942.4.12)
 このようにガンジーは主張して、構造的暴力を解消するには、糸車を回すことだと主張しました。衣類や食べ物などの必需品を自らの手で作ることが、加害者にも被害者にもならない生き方であり、平等を実現する唯一の道だとしたのです。
ガンジーにとって、政治的に独立することは、障害物を取り除くことにすぎませんでした。不服従運動によって障害物を取り除くことも大切ですが、糸車を回して、仕事と必需品を自らの手に取り戻し、国家を土台から築いていく建設的仕事こそ、不可欠だったのです。。

 

先日マンデラさんが亡くなられましたが、「アパルトヘイトは解消されたが、黒人と白人の経済格差はまだ大きい」という新聞記事を読みながら、マンデラさんが、糸紡ぎに目覚めていたら、また違っていたのではないかという思いも持ちました。
ガンジーは政治的独立の後、経済的自立を目指して、糸車を回そうと呼びかけましたが、志半ばで暗殺されました。その思いを継承していくことが、私に課せられた使命ではないかと思っています。(2013.12.11)
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2. なぜ綿にこだわるのか

2.1 何を食べ、何を着るか。
構造的暴力、すなわち先進国の日常生活(何を食べ、何を着るか)が、途上国の人々の命を奪っているということを、前回、書きましたが、そのことをもう少し詳しく書いてみたいと思います。
 
  平和を脅かすのは、軍隊や武器だけではありません。自分たちが何を食べ、何を着るかが世界の人々が平和に暮らしていけるかどうかに密接に関わっているのです。
 まず食べることについては、朝食にご飯を食べるかパンを食べるかは、本当に些細なことのように思えますが、それによって日本の自給率が大きく変わってくることも事実です。
 また、私はある時、フィリピン人の友人に、「日本人が毎日味噌汁を飲むように、フィリピンの人々は毎日シニガンスープというエビの入ったスープを飲んでいたが、日本にエビが輸出されるようになってからはエビが高くなって、庶民の手に入らなくなってしまった」と言われ、考えさせられました。高い山を作ろうと思えば、どこかに深い穴を掘らねばいけないように、日本人が豊かになった分だけ貧しくなった人々がいます。この豊かさは、他人の犠牲なくしては成り立たないのです。
 プランテーションの問題もあります。途上国の人々が自分たちの土地を持ち、自分たちが食べるものを育てることができれば、多くの人は飢えなくてすむのです。プランテーションがなくならないのは、そこで作られたものを欲しがる消費者がいるからです。お金さえ払えば何を買っても許されるわけではありません。
 そして、着ることですが、今、衣類はとても安く手に入ります。しかし、安く手に入るTシャツも環境破壊や搾取と無縁ではありません。
 綿花を栽培するのに大量の農薬が使われています。農薬の三分の一は綿に使われていると言われているほどです。収穫する時に枯葉剤で葉を落として、機械で一気に収穫するということも行われています。その中で環境破壊や健康被害が起きています。また、灌漑のし過ぎでアラル海の水位がどんどん下がり、ついには湖そのものが消えてしまったという事例もあります。
 綿花が衣類になるまでの過程にも多くの問題があります。化学染料による水質汚染の問題もありますし… 危険な労働環境の下、少女が極低賃金で1日18時間強制的に働かされているという実態もあるのです。最も低い賃金と最悪の労働条件を追求する「最底辺への競争」が加速しています。
 こういう実態があるからこそ、私たちは非常に安い値段で衣類を買うことができるようになりました。ですから、衣類を買うことが、綿花栽培に伴う環境破壊を招いたり、劣悪な労働条件での長時間労働の強制に加担することになってしまいます。衣類を使い捨てにすれば、それだけ多くの悪に荷担したことになってしまいます。
 最近はオーガニックコットンやフェアトレードによって、加害行為に加担しない衣類を手に入れようという動きもあります。それはそれで、素晴らしいことなのですが、そもそもどうして衣類が日本で製造されないのか? どうして日本で綿花を栽培していないのか? そのあたりが問題ではないかと、私は思うようになりました。
ガンジーの言葉
私はすべての道理をわきまえたインド人のためにも、祖国の原料がヨ-ロッパへ輸出され、そのために我々が高価な物を買わされているということに我慢がなりません。これに対する終始一貫した対処法はスワデシ(国産品愛用)です。我々は自分たちの綿をだれかに売らねばならないということはありません。インドでスワデシのこだまが鳴り響く時、綿花栽培者のだれ一人として、外国で加工するためにそれを売るようなことはしないでしょう。スワデシが国中に広まれば、綿は生産されたその場所で整え、紡ぎ、織るべきだとみんなが考えるようになります。(『ガンジー・自立の思想』P133)
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2.2 日本綿について
  綿花について調べてみると、いろいろと興味深いことを知ることになりました。一口に綿と言ってもいろいろな品種があり、大きく分けて海島綿(エジプト綿)、アプランド綿(米綿)、アジア綿などがあります。このうちアジア綿は繊維が短く、機械紡績に不向きだったため、産業革命以降姿を消していきました。
 アジア綿はガクが上で、綿が下を向いています。だから多少雨が降っても雨がかからないような構造になっていますし、少し小ぶりな分、早く熟して早く収穫ができるので、秋冬に雨が多く寒くなる日本では非常に栽培しやすい品種です。水も肥料もそれほど必要なく、虫もあまりつきません。
 一方、いま世界的に広く栽培されている米綿はアジア綿より一回り大きく、収量は多くなりますが、肥料・水をたくさん必要とし、虫も付きやすいため、農薬が大量に使われることにもなるわけです。
 私はやはり、今ではほとんど廃れてしまいましたが、日本古来の虫がつきにくい品種を守って育てていくこと、そしてせっかく育てた綿なら、紡いで糸にして、布にして、身につけるということが非常に大切ではないかと思っています。

 さらに、アジア綿の中の日本綿にもいろいろな種類があります。室町時代から江戸時代にかけて綿は日本で盛んに栽培され、それぞれの地域に固有の品種があるのです。さらに、白い綿だけでなく、綿毛が茶色のもの緑のものなどもあります。私が今まで育ててきたのは、白い綿では伊豆大島在来、茨城在来、会津綿があり、茶綿は知多半島在来を育ててきました。3年前に秋田に引っ越して来てからは、会津綿と知多半島在来の茶綿を育てています。

 綿栽培の日本での北限は、新潟―米沢―会津のあたりと言われていました。ですから、温暖化したとはいえ、秋田で綿花を育てるのは多少の無理があります。それでも、日本綿の中で一番寒冷地向きといわれる会津綿は、早生で9月初めより収穫が始まりますので、半分くらいは畑で収穫でき、残りは雪が降る前に刈り取って家の中においておくと、順次コットンボールから綿毛が噴き出してきます。茶綿の方は、暖かい地方の品種ですので、畑で収穫できるのは2割くらいです。

 

 日本綿は繊維が短いですが、手で紡ぐと、やや太めのしっかりとした糸になり、空気をたくさん含むので、着心地も柔らかくとても暖かいです。私はこの日本の綿をこれからも守っていきたいですし、綿花をただ育てるだけでなく、衣類にまでしていくことで、自分の生活のなかで、消費者である部分を減らし、少しでも作るということを取り戻していきたいと思っています。(2013.12.13)
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3. 近代機械文明批判 その
 機械化の問題点  
 1.人手を省く⇒雇われる人と仕事にあぶれる人 
      格差 持てる者 対 持たざるもの
      お金のあるところに商品・富が集まる 
      少数の手に利益が集中する、
            他方、貧しい人はより貧しく
   失業者を生む⇒競争⇒労働力の買い叩き 
 2.失業対策としての経済成長(過剰生産) 
     
 人を不幸にし、不平等をもたらしているのが、実は、みんなが良いものだと思っている機械なのです。ガンジーはそのことを見抜いて、機械に頼らない暮らしを提案し、工業化に反対しました。
 田植え機やコンバインなどの機械が導入されて農業は楽になったし、工業製品が安く手に入るのも、機械のお蔭ではないかと思われるでしょう。確かにそうなのですが、そのことが、私たちの幸せにつながっているでしょうか?
 まず、農業について言えば、農薬、除草剤、田植え機、コンバインで楽に生産できるようになったのだから、米の値段は安くても良いだろうとなります。アメリカの米はもっと安いのだからと… 米の値段が下がった分、耕す面積を増やす必要が生じました。そして、広い面積の田んぼで朝から晩までコンバインを使って収穫し、トラック一杯の米を農協に持って行くわけです。でも、安く買いたたかれて、1年暮らすにも十分ではなく、農業以外の仕事もしなければなりません。コンバインなどの機械によってゆとりがもたらされたわけではありません。
 私の住んでいる家からも田んぼが見えますが、稲刈りのシーズンになるとコンバインで稲を刈っています。そしてあっという間に一つの田んぼを刈り終えて次の田んぼへ、そしてまた次へというふうに、次々と刈っていきます。でもそこには人がいません。たったひとりの人間が一台のコンバインを運転して、あちこちの田んぼを刈っていきます。機械がなかった昔には、みんなで協力して稲刈りをし、終わったあとには収穫を喜びお祝いをするということもあったのでしょうが、そういう光景は今の農村にはありません。
 農業では生活できないからと、都会に出て働く人も増えました。ところが、最近では仕事に就くことも難しい状況です。なぜでしょうか? 
 糸車のような単純な道具なら、みんなが自分の糸車を持つことができますが、工場で使われているような大型機械、あるいは工場そのものとなると、そうはいきません。今日のような工業化された社会では、工場などを所有している一部の大金持ちの資本家と、その工場で雇われている大多数の労働者というふうに、人間が二つに別れてしまうのです。そして機械というのは毎年改良され進歩していくものですから、機械を持っている資本家の立場がどんどん強くなっていきます。
 たとえばある年に、ある機械を使って、十人の人を雇い、一年間に百個のあるものを生産していたとします。ところが機械が進歩したので十人雇っていたところが八人でよくなりました。だからと言ってすぐに二人の人をクビにできるわけではありません。これまで通り十人を雇い続けないといけませんから、百個作る代わりに百二十個作ろうか、というふうに、作る量を増やすわけです。
 つまりこのシステムは、機械の進歩に合わせて、毎年生産量を増やして行くことができないと人がクビにされていく、そういうシステムです。そのシステムの中で、戦後から今まで経済を拡大してきました。戦争直後は焼け野原で物が不足していましたから、毎年生産量が増えるのは良いことだったかもしれませんが、これだけ物が溢れた時代になると、生産量を増やせなくなりました。だから「しょうがないからクビにしよう」という方向へ圧力がかかるわけです。それで今リストラされる人が増えていますし、大学を卒業しても就職先がないという状況が起こっているわけです。
 そういう状況になり失業している人が大勢いれば、今度は賃金が下がっていきます。たとえば今まで時給千円を支払っていた工場があったとして、八百円でもいいから雇って欲しいという失業者がいれば、じゃあ時給八百円で人を雇おうか、ということになります。つまり今のシステムというのは、資本家がどんどん得をするようにできています。そして労働者のほうは、労働力を買いたたかれて、しかも機械が進歩すればするほどイスがどんどん減っていくイス取りゲームに参加させられているようなものです。だから悪い条件でも働いてしまいます。悪条件で朝から晩までこき使われて、奴隷のような状態に陥っているわけです。
 機械が進歩するほど、資本家の立場は強くなり、労働者の立場は弱くなります。こうして、少数の資本家の手に富と権力が集中し、豊かなものはますます豊かに、貧しいものはますます貧しくなっています。不平等な格差社会をもたらしているのが、実は、機械なのです。
ガンジーの言葉
私たちの祖先はぜいたくや快楽を遠ざけるように諭しました。そこで、何千年も前からあったような鋤で何とかやってきたのです。昔ながらの小屋に住み続けてきましたし、私たち固有の教育も昔と少しも変わってはいません。命を磨り減らす競争のシステムなど持ってはおりませんでした。各人がそれぞれの職業、商売に従事し、妥当な額を得ておりました。
 これは、私たちが機械を発明する術を持たなかったからではありません。むしろ私たちの祖先は、いったん私たちがそのようなものを追い求めるようになると、私たちは奴隷に成り下がり、道徳的品性を失ってしまうと見抜いていたからです。そこで熟慮の末、手足を使ってできることだけをやるように定めたのです。私たちの真の幸福と健康は、手足を適切に使うことにあると知っていたのです。(『ガンジー・自立の思想』pp.27-28)

 

棚から牡丹餅のようなうまい話はないということに、私たちは目覚めた方が良いのかもしれません。むしろ、手足を使って黙々と働くことに、本物の生きがいがあるような気がします。(2013.12.20)
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3. 近代機械文明批判 その2
 機械化の問題点  
  2.失業対策としての経済成長(過剰生産) 
         有害・無駄な仕事が生じる。
     不要品・有害物の生産 武器、軍隊⇒戦争
     より多くの資源・エネルギー⇒環境破壊
3.人を依存的にする 家畜や奴隷のように
    食糧はあるのに飢える お金を稼ぐための労働 
    自信のなさ プロの職人 ⇒ 賃金労働者(置き換え可能な部品)
                  作るから買う生活
    競争社会 消費社会 → アルコール ギャンブル ・・・
    Born to Buy ブランド品を身につけるのが、cool!! カッコいい
    「日本人としての誇り」を強く主張する若者  心理的不安定さ
    物づくりの仕事がなくなり、
     消費者としてしか自分のアイデンティティを主張できない。
    自分が何者かをしっかりもてていない人が、
     その支えとして国家に頼ろうとする。
  機械というのは様々な問題を作り出しています。機械の進歩に合わせて、生産量が増やせないと、つまり経済が成長しないと失業者が出ます。そこで、生産し続けるために、モデルチェンジを繰り返し、まだ使えるものも捨てさせて、新しいものを買わせようとします。
 たくさんの物を作ろうとすればするほど、それだけ多くのエネルギーや資源が必要となり、資源も枯渇しますし、大量生産、大量消費、大量廃棄によってさまざまな環境問題を引き起こしています。石油などの資源を奪い合うことになり、戦争にもつながります。
 戦争をするためには、ミサイルや戦闘機も必要ですから、軍需産業がはびこります。また、そのような軍需産業が失業者の受け皿になったりもします。無駄な公共事業がなくせないのも、失業対策という側面があるからです。
 作った商品を売りつける市場を確保するためには言うことを聞く植民地のような国も必要となってきます。このように戦争や環境破壊、南北格差など、この社会にある様々な問題が、実はこの機械というものに端を発してます。そして、そのことをガンジーは見抜いていました。
 しかもそういう社会の中で人々の仕事はどうなってしまったかというと、ものを作るという喜びに溢れた仕事がなくなり、販売や営業といった仕事が増えています。必要かどうかもわからないものをノルマを課せられてこれだけ売ってこいと言われ、ノルマが達成できなければ「あなたの替わりはいくらでもいるよ」と言われます。本当におもしろい仕事、自分がやっていて誇りを持てるような仕事というのがなくなってきています。その結果、心を病み、自殺する人も増えています。自殺まで行かなくても、ストレスを発散するためにアルコールやギャンブルに走ったりということになりがちです。忙しい中では、刹那的な娯楽しか手にする余裕がありません。
 仕事を通して、自分はこれができる人だという達成感も得られにくい時代です。自分に自信を持つことも難しい時代となりました。そのような中では、消費に走って、自分は人と違うこんなものを持っているということで優越感を得ようとしがちです。そのため、ますますお金が必要となり、機械文明の奴隷状態から抜け出ることが難しくなるという悪循環にはまります。

 企業も物を買ってもらうための宣伝合戦を繰り広げています。特に若い世代に的を絞って消費を煽っています。そのため、ロゴのついたスニーカー、ジーンズを持っていないと取り残されるような気持になったり、こういう化粧品、ダイエット、整形手術・・・とエスカレートしていきます。ありのままの自分が肯定できなくなるのです。若者たちが弱くなっているのではありません。彼らの置かれている状況が、そこまで若者たちを追いこんでいるのです。
 このようにして自信を失った若者が、最後の心のよりどころとして、日本人であることに誇りを見出すこともあります。他のアジアの国々を蔑視することで、一時の優越感に浸ってみたり… しかも、自信を失った若者に対して、「日本人としての誇りを取り戻せ」と言葉巧みに、戦争へ向かうように仕向ける人もいます。軍需産業にとって、戦争ほど儲かることはないからです。

 このように全ての問題が、近代機械文明を人々が良いことだと思って受け入れたことに端を発しています。だからガンジーはそういったことに目覚めなさいと主張し、イス取りゲームに参加していかに残っているイスにしがみつくかを考えるよりも、イスの数を増やし、手仕事や農業をしながら、みんなで協力しあって生きていく生き方をしていこうと訴えたのです。そして、その生き方は農村にありました。ガンジーは農村を中心とした社会で、大地の恵みを手作業でみんなで加工して、みんなが協力しあう、そういう生き方を目指したわけです。
ガンジーの言葉
機械を使えば、容易に事が運ぶのは間違いありませんが、だからといって幸福をもたらすとは必ずしも言えないのです。堕落するのは簡単ですが、危険でもあります。今日、手を使うやり方は技術を要するからこそ達成した満足感が味わえるものです。もし、機械に対する狂信というものが続いていくならば、我々はあまりにも不器用で弱いものとなり、神より授かった生ける機械であるこの体の使い方を忘れてしまったことで自らに腹を立てるようになる日が、ほとんど間違いなくやってくるでしょう。大多数の人々がスポーツと運動で健康を保つことはできません。なぜ人は有益で生産性があり、体も鍛えられる労働を無益で生産性がなく高価なスポーツ、運動に取って代えねばならないのでしょうか。(『ガンジー・自立の思想』pp.106-107)


「心が落ち着く」と、糸紡ぎを体験された方はみんな仰います。機械が欲望を煽るのに対して、手仕事は、私たちが自分自身を見つめる時間を提供してくれます。(2014.1.25)

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4.欲望を愛で置き換えて
  Machinery that gives abundance has left us in want. …More than machinery we need humanity. More than cleverness, we need kindness and gentleness. 
 「たくさんの物を生み出す機械によって、わたしたちはもっと必要、足りないという状況に追い込まれている。・・必要なのは機械よりも人類愛、賢さよりも親切と優しさ…」           チャップリンの『独裁者』ラストの演説より
ガンジーの言葉

「欲望を愛で置き換えなさい、そうすれば全てがまともになります」 (M.K.ガンジー)
「戦争に反対する運動は健全です。成功することを願います。しかし、あらゆる悪の根本原因、すなわち人の欲望ということを取り上げなければ、その運動は失敗に終わるのではないかと危惧します」

 しかし、機械に頼らず、手仕事に戻ろうというガンジーの主張は、当時のインドでなかなか受け入れられませんでした。それはなぜかと言いますと、人の心の中に欲望があるからだとガンジーは言います。つまり欲望という根があるから、より豊かな暮らしをと求めてしまい、戦争、環境破壊、貧富の格差といった問題が出てくるわけです。ですから、たとえば戦争に反対したり、今の時代で言えば原発を廃炉にするための運動をしたりといった活動は、そういった活動ももちろん必要ですが、欲望という根が支える樹木から生えた戦争や原発といった枝を一生懸命切り落とそうとしているのに過ぎないのです。一生懸命運動をすることで、ある瞬間、戦争という枝が切り落とされて戦争がなくなるかもしれません。でも欲望という心の問題をそのまま放っておけば、しばらくするとまたにょきにょきと戦争という枝が生えてきます。ではどうすればいいでしょうか。ガンジーは、心の中の欲望を愛で置き換えることができれば、おのずから心は平安になり、平和で平等でみんなが協力し合う持続可能な社会が実現すると言いました。「欲望を愛で置き換える」、ちょっと抽象的な言葉ですが、愛ってなんでしょうか。愛というのは、自分の利益だけを求めないことを言うのではないでしょうか。つまり自分さえよければ、今さえよければという思いをちょっと脇に置いて、自分以外の人も幸せになれるように、未来の子どもたちも幸せに生きていけるように配慮していく、そういう心を持つことです。ただ単に機械に反対するのではなくて、欲望という人間の心の問題を解決していかなければいけないのです。だからガンジーは「欲望を愛で置き換えなさい、そうすれば全てがまともになります」と言ったわけです。
コマーシャル・宣伝というものによって、あれも欲しい、これも買いたいという思いにさせられてしまいます。時には、テレビを消して、インターネットからも離れて、静かな時間を持ちたいものです。私たちは何をするために生まれてきたのか???祈りの時間・・・・現代人にこそ必要な時間であるような気がします。(2014.2.14)