God Firstの人ガンディー

God Firstの人、マハトマ・ガンディー (2019.1.30)

1月30日はガンディーの命日です。
150年前に生まれ、71年前に暗殺された人ですが、その思想は今も生き続けています。それは、彼が祈りの人で、God Firstの生き方を貫いたからではないかと思います。

「アメリカ・ファースト」や「都民ファースト」など「○○ファースト」という言葉が一時流行っていましたが、それは、自分たちさえよければよいという、利己主義です。この利己主義を超えるためにも、ガンディーにならって、God Firstの生き方をしたいものです。

ナチスに従わなかったデンマークのGod First
ガンディーの非暴力は理想主義過ぎると批判されることがあります。ナチスのような暴力に非暴力で抵抗できるわけがないと批判されてきました。しかし、ナチスの占領下におかれたデンマークでは、人々が非暴力の不服従で対抗し、ユダヤ人をスウェーデンに逃がすことで、彼らを守りました。ユダヤ人たちが、黄色いダビテの星の着いた衣服を着ることを命じられた時は、デンマーク王がそれを率先して身に着けましたし、鉄道路線のサボタージュなど、あらゆる方法で、ナチスによる支配を無効にしていったのです。
これと対照的に、オランダでは、多くのユダヤ人が命を落としています。何が、このような違いを生じさせたのでしょうか?
私は、デンマークの人たちが、God Firstの人たちだったからではないかと思います。そして、そのカギを握るのが、デンマークの教育者で牧師でもあったグルントヴィ(1783年-1872年)が提唱した「民衆高等学校」(フォルケ・ホイスコーレ)であったと、私は感じています。デンマークでは、「民衆学校」の伝統があり、この学校で啓蒙されていたので、ナチスの命令よりも神の命令に従うことができたようです。God Firstです。

民主主義の土台
グルントヴィは、民主主義とは、政治制度よりもむしろ、国民一人一人の生活であると考えていました。「ドイツでナチズムの空文句にだまされたのは政治的に未発達な中間階級、特に女性たちであった。問題は、この未成熟を克服するために何がなされるべきか、ということである。・・・ 成文憲法はそれなりに良いものである。しかし、それは象徴であり、決定的なことは民衆的・国民的生活がこの象徴を内実あるものにするかどうかである。民主主義は・・権力が正義であることを否定し、言論を自由にする」と、グルントヴィの紹介者であるハル・コックはその著書『生活形式の民主主義 デンマーク社会の哲学』(花伝社 2004年)の中で書いています。
国民一人一人が啓蒙され、一人一人の生活が民主主義に根差したものである時に、その国は民主国家になっていくという考えです。民主主義とは民衆教育であるとガンディーも同じことを主張しています。
そして、ガンディーはグルントヴィを知らなかったかもしれませんが、神に祈る祈りの中で、民衆教育の重要性に気づいていきます。そして、God Firstを貫ける国民へと、国民を教育することを独立運動の大切な柱に位置付けていきました。

塩の行進の背後にあるもの
非暴力の不服従運動が暴動化した時に、ガンディーは不服従運動の中止を宣言し、田舎にこもって糸紡ぎに明け暮れる日々を送ります。「ガンディー失意の時代」と表現する人もいますが、実は、この時代こそ、ガンディーが民衆教育に没頭していた時代です。毎週発行する新聞の社説を通して、平和で非暴力の社会を作るために目指すべきは、平等な社会であり、そのためには、人々の暮らしの中心に手仕事がなければならないと説きました。そして、自ら糸車を回すことで、手本を示したのです。約10年の教育期間を経て、非暴力を理解できた弟子たちを連れて、ガンディーは塩の行進に出発しました。
非暴力を自分のものとした人々は、殴られても仕返しすることなく、海岸に向かって、海水から塩を作っていきました。

インド独立運動では、塩の行進に脚光が当たりますが、その背後にある民衆教育に目を向けるべきではないでしょうか?
過去の日本でも、民衆が大本営発表にだまされ、戦争に協力していった歴史があります。だました方が悪いのですが、だまされた側の責任ということも、考える必要があると思います。そして、2度とだまされないで、正しい判断ができる国民として成長するためにも、民衆教育を考える必要があると思います。

ガンディーは語ります。
神は、その瞬間、瞬間にきっかり必要なだけしか、決して創造されません。ですから、もし誰かが自分が本当に必要とする以上を自分のものとしてしまうなら、隣人を困窮させることになります。世界のさまざまな所で人々が飢えていますが、これは、我々の多くが必要とするよりもはるかに多くを独占しているためです。
一番安いものを買うようにと、そのことによって隣に住む隣人に何が起ころうと考慮する事なく教えるのは浅はかな哲学です。
ある国が他の国を犠牲にすることを許すような経済は、不道徳であり、「低賃金および過重労働」によって作られた商品を購入し、使用することは罪深いことです。アメリカ産の小麦を食べ、隣人の穀物商にお客が来なくなり、困り果てているのを顧みないというのは罰当たりなことです。同様に、私がリージェント通り(ロンドンのウエスト・エンドにある高級ショッピング街)の最新のファッションを身にまとうのも悪いことです。と言いますのも、もし隣人が紡ぎ、織った布を身に着けさえしていれば、私が衣類を手に入れるだけでなく、彼らも食べ物と着る物を手にすることになると知っているからです。

労働の尊厳を取り戻すために
このようにガンディーは書き、民衆に人としての生き方を教えていきました。そして、労働を尊ぶ教育を提唱しました。
デンマークのグルントヴィも、子どもたちを『本の虫』にしてしまう学校教育を批判して、次のように述べています。
「幼年期を教室で諸々の本や黒板、ペンやインクで過ごして浪費するなら、全体として他の人々の経済支出に頼りながら情緒的で怠惰な生活に埋もれているなら、ハンマーややっとこ、斧やのこぎりを手にし、あるいはロープや水夫樽を手にして熱心に働くことは簡単ではないと経験は教えている。・・何事かをなそうと全く考えないか、あるいはたんに読んだり、黒板で計算したり、図形を描いたり、理性的推理によって結論を導いたりするのを好むだけの状態、そうした魔術感染状態の不幸に陥ってしまう。」(『ホイスコーレ』N.F.S.グルントヴィ著・風媒社 2014年)

いつの時代も人にとっての必需品は、衣・食・住です。しかし、近代化以後、大半の人が必需品を買う暮らしとなり、作ることをしなくなりました。近代教育を受けて育った世代は、頭でっかちな『本の虫』となっていきました。ですから、ガンディーに共鳴する人であっても、糸紡ぎを日課にする人は多くありません。むしろ書物を書いたり、講演などのイベントを開催したりすることの方が重要視されている傾向にあります。
しかし、必需品を買う生活を続けている限り、サラリーマン生活をしながら、安いものに手を出していくしかありません。低賃金労働で作られた物だったり、機械で作られ、遠くから運ばれる物だったりします。その結果、弱い立場の人を搾取する加害者になったり、資源・エネルギーの浪費に加担したりすることになります。
私たちはもう一度、自らを教育し直し、ただの『本の虫』であることをやめ、手足を使い、手間暇をかけて、意欲的に働く人へと成長することが重要になります。

互いに成長していく場として、今年は、月2回の糸紡ぎを開催していきたいと思っています。基本的に第1・第3月曜日10時から12時。場所は岡山県久米南町中央公民館です。具体的日程などはその都度、このホームページのトップページでご案内します。ガンディーがインドのワルダという村を拠点にして、村の再建を目指したように、いつの日か、私が住むこの町がカディーの町になればと、壮大な夢を追いかけながら、地道に一歩ずつ歩んでいきたいと願っています。